「アヴィニョン捕囚」って、世界史で聞いたことがある気がするけど、なんだっけ?
アヴィニョンって地名…?
14世紀の初めから約70年間、教皇がローマを追われ、南フランスのアヴィニョンに教皇庁がおかれたことを教皇のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)と言います。
さて、このアヴィニョンってどんなところなのでしょう。
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教皇のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)とは?
カトリックの総本山、ローマ教皇庁。
現在はローマの中心部にバチカン市国として存在しています。
この教皇庁が一時期、ローマどころかイタリアからも離れて、フランスに置かれていたことをご存じでしょうか。
このことが、ヘブライ人(ユダヤ人)のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」、「アヴィニョン捕囚」と呼ばれます。
バビロン捕囚って?
紀元前6世紀にヘブライ人(ユダヤ人)が王国を滅ばされ、バビロンへ連れ去られた出来事のこと。
教皇のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)の理由は?
中世の時代、絶大な権威を誇った教皇でしたが、13世紀末頃には各国の王権が勢力を伸ばしていました。
そして、それに反比例して弱体化していたカトリック教会の影響力。
そんな時代にあって、教皇絶対主義を唱える教皇ボニファティウス8世は各国の王様たちにとって鬱陶しい存在だったに違いありません。
フランス王フィリップ4世は、このボニファティウス8世と「教会に税金をかける、かけない」で対立。ついには教皇を捕らえてしまいます。
すぐに釈放されましたが、教皇は屈辱のうちに急死してしまうのです。
さすが、フィリップ4世。
絶対王政の基礎を築いたと言われるだけあるねぇ。
この事件が有名なアナーニ事件で、教皇権の弱体化の象徴としてよく語られます。
その後にフィリップ4世の後押しで教皇になったのはフランス人のクレメンス5世。
フランス王が自分の都合のいい人物を教皇にして、
自分の都合のいいように教皇をフランスに引っ越させたというわけ。
教皇のバビロン捕囚があったアヴィニョン教皇庁ってどんなところ?
アヴィニョンは南フランスの中心的な街の一つ。
市街地のはずれにはフランス版新幹線のTGVの駅があり、周辺の観光地とのアクセスも良好。
とは言え、あくまで南フランスの地方都市。
アヴィニョンの街はこじんまりとした地方都市然とした様相で、教皇の住まいとして政治の表舞台に登場していたとは俄には信じがたいくらいです。
教皇的にはアヴィニョンでの70年間はローマを離れ、屈辱的な経験だったはずですが、アヴィニョンにも大きな大きな教皇庁宮殿が建てられました。
石造りの立派な宮殿がアヴィニョンの旧市街の外れに鎮座しています。
アヴィニョン的にはこの宮殿に教皇がいた時代こそが黄金時代だったことでしょう。
今では立派な宮殿の中はすっかり空っぽ。堅牢な建物だけが往時をしのばせます。
アヴィニョンと言えば?
アヴィニョンの橋の上で
アヴィニョン捕囚と同じくアヴィニョンで有名なのはアヴィニョンの橋。
正しくはサン・ベネゼ橋と呼ばれています。
『アヴィニョンの橋の上で』という民謡。大抵の人が聞いたことがあるはず。
アヴィニョンの橋で 踊るよ踊るよ
アヴィニョンの橋で 輪になって組んで
子どもが通る 大人も通る
小林純一訳詞
今でこそ、橋は川の途中までしかなく、対岸に渡ることはできませんが、アヴィニョンの観光名所であることにかわりはありません。
ポン・デュ・ガール(水道橋)
アヴィニョンは有名な水道橋、ポン・デュ・ガール観光の拠点となる街でもあります。
古代ローマ人たちの土木技術の高さに感嘆すること間違いなし!
加えて、アヴィニョンの周辺には可愛い町が点在。
ポン・デュ・ガールと合わせて周るのが鉄板です。
ポン・デュ・ガールや小さな町々は車がないと周りにくいです。
レンタカーを運転する自信がない人は現地のツアーで周るのが吉。
私はアヴィニョンの観光案内所で予約しました。
日本で予約していくこともできますよ。(https://www.veltra.com/jp/europe/france/avignon/)